始まりは経木づくりから
  小見山さんの祖父は日本橋の経木職人たった。経木とは木材を紙のように薄く削ったもので、経文を写したことからこの名がついている。主に松材を使い、鰹節のカンナのようにして削り、幅か3寸から5寸という数種類かあった。経木は、主に菓子や魚、肉を包む資材として、昭和40年代ごろまで盛んに使われたものだった。
  この経木を問屋へ卸してねぎられるよりは、いっそ店で売ったほうか得策だと考えたのか小見山さんの父、一郎さんだった。三越の呉服部に勤めた経験もある、明治30年生まれの一郎さんは根っからの商人。大正12年9月の関東大震災で、日本橋にあった魚河岸築地に移転したのをきっかけに、市場通り(新大橋通り)の西側に間ロー間奥行き3尺の折り箱・経木専門店を始めた。
  関東大震災後の築地は大きな変貌を遂げている。現在の築地本願寺の本堂は昭和9年の建立で、西向きに立つが、それまでは南向きでいまの南門が正門で、正門前には50余の子院が整然と並び、いまの晴海通りから場外市場の一帯が寺町だった。しかし、震災直後、子院のほとんどはよそへ移転し、跡地は瓦礫の山と化した。
  「私が生まれる前のことですが、当時、土地の所有者である佃政の親分が瓦礫を始末してくれれば店を出していいよということで、市場通りに店を構えたんですよ。住まいは現在地(場外市場)の4丁目5番の約12坪に2階建ての家を建て、その後すぐに店もこちらに移して商売を続けました。毎日、忙しかったから、家族揃って食事をしたという記憶がないくらいです。当時、隣の菅商店はしもた屋だったので、私はときどきお箸とお茶わんとを持ってごはんを食べさせてもらっていましたね」
  小見山さんの子ども時代の話はとても興味深い。現在も幼なじみ数人が同じ場外市場で現役を貫いているという。昭和20年8月20日の入隊を直前の15日に終戦を迎えた小見山さん。大学卒業後、自分の個性をどこで生かしていいのかわからないまま「サラリーマンはまきまった金額の中で生活していくが、商人は日銭が入る」と思い、昭和23年暮れからごく自然に店に入り、父とともに働くようになったのである。
 
 
父の商いが教えてくれたこと
  小見山さんが店に入ったころは、毎日のように産地に行って自分の目で経木や折り箱や割箸の材料を確かめた。材料を買って職人に渡し、職人を集めてどうやったらいいものができるかを考えた。また、「利益というものを基本的に見直してくれ」と父に言われ、税務署の対応にも追われた。
  小見山さんは父から多大な影響を受けたという。
「父は小さいながらも企業という考え方をしていました。いい商品を安く売ればお客がついてくる。品物が安くなったら、それだけいい品物に切り替えていく。たとえば、5円でできるものが4円でできるようになったとして、父は箸や経木を作っている職人に、そのまま値切っちゃうとかわいそうだから、4円でできるものにおれは5円を出してあげるから、そのかわりにその1円分をもっとよくしろ。それでもってお客の信用を獲得しろ。それが商売を継続させる唯一の手段だと言うんですね」
  昭和40年代に入ってから、人々はスーパーの便利さに飛びつき、小売りは時代遅れとなり、この先は伸びないとまで言われた。小見山商店でも大手スーパーの消費者に対応するような店に変えたらどうだと言われた。
「父に相談したら、おまえがそういうシステムでやるのはかまわないけれど、おれはやりたくない。自分で判断しろ。おれは小売り屋なんだ。大手は大手の取引でやればよい。末端の消費者は別にして、その中間のわれわれが目的とする商人たちがどこで買っていいのかわからなくなってしまう。その人たちが残っている間、その人たちのために品物を提供する。それが小売り屋の務めだ。おまえはどうすると言われて、それじゃ私も言う通りにする。買ってくれる人に小売りを徹底させようと決心しました」父は一定した良い品を売るには、まず第.にお客の信用が大事と言ってはばからなかった。だから、なるべく売掛けを避けた。売掛けで買う人も現金で買う人も同じ値段というのは不公平だという。また、安売りもしなかった。安売りをしてその日に買った人はいいが、たまたまその日に来店できなかった常連のお客さんにはどうサービスするのかと。誰が買っても同じ値段を統一させようとあくまで定価販売にこだわった。
  「昔は割箸でも経木でも中身の数量については"約lOO膳〃、"約100枚〃と袋に表記していたんですよ。つまり、正確な数ではなかったわけです。父が問屋を呼んで聞いてみると、96膳しか入っていないという。それを改めさせたのも父でした。足りない4膳の金を出すからと言い、すべて〃正100膳"としました。それから、お客さんに対して売り切れだといってはいけないと。よかったらこういうものもありますよって教えて差し上げるんですよね」
 父の商売に対する姿勢を目の当たりにして、「商売は自分の目と経験で確かめるしかない」と小見山さんは実感した。
 
 
父から息子へ、語り継ぐもの
   小見山さんが父の影響を受けたのは商売に限らず、旺盛な向学心でもあった。「父は30代の後半に大学の夜間部に通って経済の勉強をして、就学証書をもらったんですよ。父の書棚には文学や経済の本がずらりと並んでいました。社会主義関係の本は、子どもの頃、貧しかったからそういう人々が公平に暮らせるようになってほしいという父の思いもあったのでしょうね」
  小見山さんは父に勉強は一生のものだといわれて大学に進学した。時には音楽家、それもコンダクターになりたいという夢があった。また、中学生のときに築地小劇場では杉村春子が出演した新劇も観ているほど演劇関係にも興味があった。そうした文化的関心も父の影響が大きかったという。
  昭和53年にその父が亡くなった。アメリカに留学していた長男の純一さんがーおじいちゃんの店を継ぐから」と言ったが、当時の小見山さんはこの商売の発展に限界を感じ、息子に引き継がせて夢を持たせることが難しいのではないかという感じをもっていた。だから息子には「自分の人生なんだからやりたいことをやりなさい」と言っていたが、祖父を尊敬していた純一さんはそのまま初代の遺志を継いだ。「この子になら安心してまかせておける」と小見山さんは確信した。そのとき息子に対しては、「父の時代は座って商いができた。自分のときは立って商いをした。そして、これからは前に出て商いをする時代だ」と話したという。
  「商人の遺伝子を活用していくのはその人の才能。息子は商売の発展を目指して着実にコンタクトを広げている。昨年亡くなった丸井屋の安藤さんに、息子はおじいさんの夢を広げているなと言われました。私は父の夢を広げられなかったのかもしれない。ただ、父の商いを忠実に息子に引き渡しただけなんですよ」と謙遜するが、「父の遺志を継ぐ商売を続けたい」という小見山さんの気持ちは息子へと受け継がれ、親子三代にわたって確かな信頼が築き上げられたのだった。 
 
 
これからの商売と築地の展望
  小見山商店の主力商品である割箸は大きく分けて、現在、元禄、利久箸、天そげの三つに分類され、30〜40種類を扱っている。原産は吉野杉である。箸の作り方には、二通りあり、材木を板にして裁断して作るものと、材木を丸太のままカンナの刃を立てて、箸の厚さに剥きそれを裁断して作るものとがあり、両方とも仕上げに面を削る。「箸はご存知のように廃材利用です。製材屋さんから出る背板が材料です。しかし、最近では材料が少なくなってきて、90%は外材(中国産)に頼らざるを得ないのが現状。また、産地に行くと、おれはここまでやらなくっちゃ納得できないよという職人も少なくなってきたけれど、職人には十分に納得してもらわないとだめです」
  バブルのころを中心に東京のいたるところで小売店が次から次へと撤退し、築地周辺も食料品店や鮮魚店が消え、寿司店が増えていった。そうした変化とともに包装資材もどんどん様変わりしていった。「紆余曲折を経て現在に至っています。確かに、私たちの商売を大きく変えたのがポリエチレンの進出ですが、割箸も折り箱も日本の食文化に欠かせないものです。父の遺志を継いで、息子がどんどん外に向けて発信して頑張ってくれていますよ」
  小見山さんが純一さんに寄せる信頼は大きいのである。いま、場外市場は市場の移転問題で揺れている。
「築地の市場は東京都の台所なんだから、場外は魚河岸といっしょにあったほうがベターですよ。場内市場の移転に関して、場外の意見も聞いてほしい、現段階では都の計画が見えてこないし、危機感が見られない。でも、場外では若い人たちが頑張っていますね。これからも定着できるイベントをどんどん実行してほしい。築地市場は自負心があるけれど、それをうまく広げていかないと意味がない。下町の力というのはたいしたものなんですから」
  操るなめらかな江戸弁にもフットワークの軽さがうかがえる。若いころから各方面に幅広い交流を持ち続け、特に演劇、芸能関係には古くからの友人知人がたくさんいるという。
 小見山さんは生涯現役。毎朝、店に出て接客の喜びを感じているが、それは尊敬する父から自然に受け継いだ「商いの心」でもある。