口の中でとろけてしまうアナゴのうまさは、通い詰めたくなるほど。
隣に居合わせたご婦人にまで、「ここの鮨、おいしいでしょ!」と声をかけてします平野さん。握りを手に、これが幸福者の表情だ。
なにしろ築地の場内にある寿司屋なのだから、生ものは新鮮。でも、それにもましておいしいのは江戸前独特の、手を加えたアワビやハマグリだ、と平野文さんは力強く言う。とにかく行って食べてみなければなるまい。「もうアナゴなんかね、口に入れたとたんにふぁーっと溶けてしまうのよ。ふぁーっと」
もう昼を過ぎたとういのに、場内で名を知られたTちゃんやD鮨の前には行列が凝固したように動かない。あちこちで元気のいい挨拶を交わしながら、平野さんはそれらをやり過ごし、ずんずん歩いていく。そして奥まったところにようやく見つけた「鮨文」の暖簾。
その向こうには、12人座ったらいっぱいのカウンターがあり、上品な出で立ちの主婦たちがにぎりを頬張っている。知る人ぞ知る名店といった風情である。「結婚して、魚海岸の仲卸業をやっている主人に連れられて来たのが最初なんです。主人の家では代々築地ではこの店にしか入らない。私もそれにならってここでしか食べないんです」それはつまり、「鮨文」の鮨を食べたらほかでは食べる気がしないということである。「新鮮な魚で握ってくれる御寿司屋さんは場内でなくてもありますけど、昔からの仕事を守って鮨ネタを作っていて築地のイメージにふさわしい店となるとここしかないんです。だから、お鮨が食べたいというお客さんがいる時は「鮨文」へ足を運んでしまいます」
大抵の客は、ここに来てアナゴを食べるとイチコロ。とろけるうまさに参ってしまうというのである。聞けば築地に水揚げされる中でも、この店が仕入れるアナゴは特別なのだという。「大きさや太さ、一番いいのをウチのために取っておいてくれるんだけど、その中から2、3匹ですね。ウチが仕入れるのは。アナゴはお母さんの目にかなったものじゃないとだめなんです。」
威勢にいい娘さんが教えてくれた。仕入れたアナゴは煮た後にタレに漬け込み握って出す時にツメを塗る。このツメがまた曲者で、(鮨文)ではアナゴの煮汁やアワビの煮汁などを混ぜて煮詰めたものを使っている「ウチは市場が築地に移ってくる前から場内で店を開いているんですが、このツメはその時から作り足してきたもの。年季が入っているんですよ」
今度は女将さんがツメの入った容器みせてくれた。トロリろアメのような液体が妖しく光る。そして口の中でとろけるようなアナゴは伝来のツメの凝縮されたうまみと渾然となって人の心を誘惑する。同じツメを塗った煮ハマグリ、さらにゼラチンのように柔らかく煮込まれたアワビと食が進むころには、もうこの店の鮨の虜になっているというわけだ「食いしん坊でもお鮨が好きだという人が来ると驚かしてやりたくなるでしょ。そんな時、ここのアナゴは、食べる前に溶けちゃうんだよと言って食べさせるんです。で、その人が、”わっ、ほんとだ!”と驚いてくれると連れてきてよかった、と満足するんです」(笑)
ただし、営業時間は朝五時半から昼二時半まで。とろける鮨のうまさを体験するならば、朝飯を抜いて駆けつけるのが望ましい。時間によってはひと仕事終えた市場の人々と半日ずれた「晩酌」を楽しむこともできるかもしれない。そんな人たちのために、(鮨文)には酒も肴もたっぷりと用意してあるのだ。それもまた、市場にある寿司屋の楽しみではないか。
雑誌 BRUTUS